福島県有機農業ネットワークの方たちと共に熊本県水俣を訪問し、水俣への理解を深めました。水俣市久木野の市民の手により再生された棚田や小水力発電などを視察、地域資源を生かした地域の取り組みに関する意見交換を通じて次なるステップを考える機会としました。
熊本県水俣市 視察&交流事業 報告
【実施概要】
日時:3月12日(火)〜 3月14日(木)
参加者:
一般財団法人CSOネットワーク 黒田かをり 今田克二
特定非営利活動法人 福島県有機農業ネットワーク 菅野正寿 高松祥子 今井麻希子
株式会社 オルタナ 代表取締役社長、オルタナ編集長 森摂(13日—14日)
3月12日(火) 15:00-17:00
水俣市立水俣病資料館視察
- 語り部杉本肇氏より話を伺う
- 館内見学(参考:水俣病資料館ホームページ)
視察概要:
漁民の家に生まれ、両親が水俣病患者、自身も水俣病であると診断を受けた杉本肇さんから、水俣病や水俣病を生きる人たちの実態について話を伺った。
水俣では小学5年生のカリキュラムに水俣病を学び、水俣病資料館を見学することが位置づけられており、杉本さんは普段は見学に訪れた小学生を相手に話をすることが多いという。水俣病の実態を把握しながらその事実を隠し続けたチッソ、政府公式見解の発表の遅れや認定を受けていない患者たちの存在、差別や損害訴訟を巡る地域の分断など、歴史的背景や現在の水俣病患者の生々しい実態を伺い知ることができた。
杉本さんの両親もまた水俣病の「語り部」であった。長年水俣病に苦しんできた母英子さんは生前「病気もつらかったけれど、差別が最もつらかった」と話していたという。風評被害や人権侵害が人の心に与える痛みが、ひしひしと伝わってきた。
杉本さんから話を伺ったのち、福島県有機農業ネットワークの菅野さんから、福島でも同じような事態が起きているという事実や、水俣病からの学びを福島の復興にもつなげたいという想いについて話があった。
館内の展示には福島の人たちに届けられた水俣市民からのメッセージや企業の社会的責任にふれたパネルも展示されていた。また、医師で水俣病研究者としてその生涯を捧げ多くの社会的貢献を果たした原田正純氏についても特別展示されていた。同氏は2012年6月に亡くなったが、福島第一原発事故発生後、水俣と福島について、多くの発信を行なったことでも知られている。
補足情報:
- 資料館の入り口付近には、施設見学に訪れる小学校5年生を対象とした展示が飾られてある
- 教科書により水俣病関連事項の掲載量が異なる。最も少ないのは教育出版者の1ページ、最も多いのは光村図書出版の16ページ。水俣市では、4ページ掲載された東京書籍の教科書を使っている
- 水俣病のイメージ払拭のため水俣再生の記述を教科書に盛り込むよう文科省に申請がなされてから2002年に実現されるまで4年かかった
- 展示には、水俣の人たちから、東日本・福島の人たちへ寄せられたメッセージや風評被害などに関連するものが多くあった
- 「風評被害に思う」と名付けられた展示では、有識者による水俣の教訓と福島への想いが紹介されている
- CSRに関する展示コーナーには、企業の社会的責任についてわかりやすく説明したパネルが複数展示されていた
- 杉本肇さんのご両親の残した「人様は変えられないから自分が変わる」という言葉が展示されている。資料館では、水俣病患者の方々による言葉が紹介されたポストカードなどの他、杉本さんの捕ったいりこ・白子や水俣の農産物も販売されている
語り部 杉本肇さんの話:
1961年(昭和36年)生まれ。水俣病患者であった杉本英子さんの長男として生まれる。水俣市の茂道という漁村の出身。平成20年から語り部として活動している。普段は社会科見学に訪れた小学生を対象に話をすることが多い(水俣病資料館では平成6年より「語り部制度」を実施しており、現在は13人の語り部がいる)。
杉本さんは現在、漁師として、ちりめんじゃこやいりこなどを捕って生活しており、特に4月〜5月はシーズンで忙しい(ただし、最近は乱獲や気候変動の影響もあり魚が捕れなくなってきている)。以前は父、弟と自分の3人で漁師をしていた(5年前までは母と祖母も交えて)。杉本さんの家では魚の摂取量が多く、父母、両祖父母が認定患者となった。杉本さんは祖父を小学二年生の時に水俣病で亡くし、後に両親も発病し、入院生活を送るなど大変な困難を体験したが、両親や両祖父母から学んだことは多く、患者の家族として生きることは必ずしも不幸なことではないという気持ちも含め、体験から感じたことを伝えていきたいという想いから語り部として生きることを選んだ。杉本さん自身、親にすすめられて5年前に検診を受けたところ、水俣病の症状があることが判明した。健常者に比べて体力の衰えが早いなどの症状があると言われており、杉本さんも一昨年内臓癌を煩い、健康に不安を抱えている。
水俣病の体験についての話:
祖父は急に発病し、苦しみながら亡くなった。水俣病が発病すると、隔離された空間で差別を受けて生活することを余儀なくされた。網元であり20-30人の人たちが出入りしていたが、水俣病が発生すると誰も立ち寄らなくなった。家族は第一次訴訟の原告となり闘ったが、親戚にもチッソの関係者がおり、また水俣はチッソの城下町でもあることから、訴訟を起こしたことで孤立していった。両親とも水俣病であったが、母(英子さん)は身体の痛みをこらえながら弁当をつくり、5人の子どもを育てた。救急車のサイレンが聞こえるたび、自分の親が運ばれたのではないかという恐怖感に苛まれた。母は最後の12年間「語り部」として活動し「一番つらかったのは差別であった」と語った。自身も中学や高校時代に、水俣出身であることから差別を受ける経験した。「もやいなおし」をきっかけに、水俣をよくしていこう、環境のまちとして再生しようという機運が高まり、最近になってようやく、水俣のお国自慢ができるようになった。熊本県では、小学校5年生はすべて水俣病資料館を訪れることになっている。歴史だけではなく、人権や差別の問題などを伝えていきたい。
福島県有機農業ネットワーク理事長 菅野正寿さんの感想:
今回水俣を始めて訪れたが、現地に足を運び直接話を伺うことで多くの学びを得ることができた。水俣で現在漁業が再開され、漁師をしている人がいると聞いて嬉しい。福島でも地域の分断が起きている。病気より差別がつらかったという言葉は、福島の人たちにも伝えていきたい。高度経済成長は自分たちの世代が関係していることでもあり、それにより引き起こされた問題について、自分たちが向き合い、解決していきたいと考えている。
3月13日(水) 10:00 – 15:00
一般財団法人水俣病センター相思社 視察ツアー
- 水俣市内の水俣病に縁のある土地を視察
- 相思社の資料館を視察(参考:相思社のホームページ)
水俣市視察概要:
相思社職員葛西さんの案内で、水俣市の駅の目の前にあるチッソ(2012年の分社化ののち、現在の社名はJNC株式会社という。以下、ここではチッソと表記)の社屋を訪れ、患者たちが抗議行動を行なっていた正門前を見学する。水俣は100年来のチッソの城下町。水俣市では社会的階層により居住地が分かれており、チッソの重役らは川の上流に暮らし、多くの被害者を出した漁民たちの生活の場(漁港)とは物理的にも心理的にも隔たりのある場所で生活している。チッソがメチル水銀を排出した百間排水口周辺からその下流域は、現在は埋立地となっており、沿岸部にはエコパークがつくられている。エコパークには、患者の家族らが持ち寄った魂石と呼ばれる石像が何体も置かれており、人びとが祈りを捧げる場となっている。慰霊碑には公式認定された患者のみが祀られており、それ以外の人たちは別の場所(乙女塚)で慰霊を行なっているという。風評被害を予防するという目的もあり、水俣湾には1974年に仕切り網が設置された(実際には編目は粗く魚が出入り出来る状況だった)。リアス式海岸の漁港は、漁業に非常に適した豊かな環境にあった。そして、それ故に魚を介して多くの水俣病患者を排出した。1997年、熊本県知事による「水俣湾安全宣言」が出されたことで漁業は再開され、今も漁師はいりこなどを捕って生活している。
補足情報:
- チッソ(JNC)は現在も地域の人気企業
- チッソは水力発電所を保有し、水力発電事業を営んでいる。社員は社宅でその電力を使って生活している
- チッソの正門前では座り込みや抗議活動が多く行なわれた。そういった活動が展開されにくいよう、数年前に正門前広場が作り変えられた
- 水俣第二小学校の校歌には、チッソ工場の繁栄を褒め讃える内容の歌詞がある
- 第一小学校には、かつてチッソの重役の子どもたちだけを集めたクラスが存在したと言われている
- 補償の一環として、不知火海で漁師に魚を捕らせ、それを買い上げて処分するという策が取られた
- 補償金で家屋を建て直した人たちは、やっかみを受けることもあった
相思社訪問概要:
一般財団法人水俣病センター相思社(以下、相思社)は水俣病患者の真実と意味を明らかにするため、資料展示や情報発信、水俣視察の提供などを行なっている。水俣の漁民の生活を伝える展示の他、抗議運動に使われテレビでも放映されて有名になった「怨」と書かれた旗や、水俣病の原因追及のための実験に使われた猫の飼育施設の関連展示、風評被害防止のために水俣湾に貼られた仕切り網の実物など、当時の様子が生々しくリアルに伝わってくる展示が多い。他にも水俣病を伝える書籍など多くの資料が展示・販売されていた。慰霊を祀る仏壇や、見学者のための宿泊施設もある。
補足情報:
- 相思社は、かつては水俣病患者のための作業所でもあった
- 裁判の翌年、勝訴したことにより水俣に住み続けにくくなる人たちの拠り所となる場所を、という想いから設立した(74年)
- 88年に歴史考証館を併設
- リアス式海岸に暮らす漁村の人たちは、魚以外の食料を得ることが難しく、一日に1キロほどの魚を摂取していた。当初は原因が明らかにされていなかったため、「自分は大丈夫だろう」と食べ続けたことが水俣病被害の拡大につながった
- 現在、漁村の人たちの多くは、半農半漁の生活をしている(丘陵地でのデコポンの栽培など)
- アセトアルデヒドは非常に多くの商品の素材として使われているため、不買運動を起こすことが事実上不可能
- 相思社には水俣病患者(主に公式認定を受けなかった人たち)の他、猫の慰霊碑も祀られている
チッソ(現JNC)本社前
正門の目の前に水俣駅が見える
チッソがメチル水銀を排出した百間排水口
チッソがメチル水銀を排出した百間排水口
水俣湾を臨む埋め立て地はエコパークと名付けられた
かつて水俣湾に仕切り網が設置されていたことが説明されている
エコパークには人びとが持ち寄ったさまざまな木の苗が育っている
認定患者を祀った慰霊碑。水俣病が公式認定された5月1日に、毎年慰霊祭が開催される
被害者を偲び、魂石と呼ばれる石像が置かれている
被害者を偲び、魂石と呼ばれる石像が置かれている
水俣メモリアルと呼ばれるモニュメント
穏やかな田園風景
茂道の漁村
岩場では多くの貝が捕れる。これもまた漁村に暮らす人たちの間に水俣病を広める要因となった
相思社では多くの非認定患者の慰霊が祀られている
猫の墓。多くの猫が水俣病の犠牲となった
当時の漁村の人たちの生活を伝える展示
アセトアルデヒドは非常に多くの商品の素材として使われている
水俣病の原因究明の実験には猫が使われた
水俣湾に実際に設置された仕切り網。編み目が粗い
水俣病は神経を介して全身に広がり、さまざまな症状を見せる
水俣病患者に向けられた酷い言葉。政治家の発言もある
抗議活動に使われた旗。
「怨」と書かれた旗がテレビでも放映され、恐ろしい印象を与えた
記念撮影
3月13日(水)
16:00 – 18:00 交流フォーラム
18:15- 20:00 懇親会
「水俣と福島をつなぐフォーラム」(福田農場)
開会の挨拶 CSOネットワーク 今田克司
取り組みの事例の共有
福島県有機農業ネットワーク菅野氏
あばぁこんね 高倉氏、福田氏、井上氏
水俣市久木野ふるさとセンター愛林館 沢畑氏
コメント:オルタナ編集長 森氏
司会進行 CSOネットワーク 黒田かをり
概要:
福島県有機農業ネットワーク菅野さんから、二本松市を中心に展開されている地域循環型社会構築に向けた試みや、放射能被害の実態について報告があった。水俣からは、水俣市久木野ふるさとセンター愛林林の沢畑館長から、高齢地域における棚田や森林復元のユニークな試みについて、そして水俣に関わりを持つ若者たちのネットワーク、あばぁこんねのメンバーから、水俣病というイメージを超え、地域資源を使った商品開発や新たな地域のイメージの発信を通じて取り組んでいるあらたなまちづくりについて報告があった。県外からわざわざ訪れた、有機農業を取り組む熱心な参加者も複数あり、有機農業に原発が及ぼす影響について、あるいは風評被害を超えて地域からメッセージを発信する重要性についてなど、多くの意見が交換された。
補足情報:
福島県有機農業ネットワーク 菅野氏:
- この地で農業を続けられるかと不安もあったが、同時に第一次産業を守らなければならないという想いもあり、有機農業を続けている
- 内部被爆に関して、娘はこれまで3回検査を受けた。3回目で値が低くなった
- 健康への影響については科学者によりまちまち。正しい判断ができるよう、定期検診を受けられるように政府に提言したい
- 住宅除染はほとんど進んでおらず、山についても手つかず。落ち葉が枯れ、それがセシウムを取り込んでいる。土壌がセシウムを吸収し、植物への移転を防いでいる。加工することで値が下がることも検証されている
- 「農民は環境の生産者。農業を守らなくてはならない」
- 水俣も人災であり、差別や地域の分断が起きた。福島でも同じことが起こっている。水俣から学び、それをいかしていきたい
- 会場からは、有機農業と原発の話をどう結びつければいいかと悩んでいる、多様性の農業が重要だと伝えていきたい、などの声があった
- 参考:菅野さんや福島県有機農業ネットワークの取り組みについて紹介した記事(「自然の恵み豊かな地域づくりを福島から」環境goo「未来への道しるべ」)
水俣市久木野ふるさとセンター愛林館 沢畑氏:
- 水俣市久木野ふるさとセンター愛林館は水俣市の保有する施設。
- グリーンツーリズムを展開。一回目は村のいいところを見てもらう。二回目は影の部分も見せてゆく。ここに共感し、一緒に考えていこうという人たちがいる
- 沢畑氏は愛林館の館長として公募で選ばれ、19年前に水俣に移り住んだ
- 近代科学は「いつでも、どこでも、誰でも」を目指す。そこに近代化の失敗があった
- 低価格の定食を提供するリンガーハットは、国産野菜をつかったメニューを展開し20円増額し、増益につながった。農業を支えるには、消費者の成熟も必要
- 農村を支えるため、直接所得補償の必要性を訴えている
- 愛林館ではさまざまな活動を展開料理カードを配布し、家庭料理のレシピを書いてもらうこと、田援支援プロジェクト、棚田の石垣の修復、たいまつアート「棚田のあかり」など
- 健全な森づくりを目指し、ボランティアによる間伐なども行なっている(参加者は地域外の人たちがほとんど)
- ポイントは「小さなカネで豊かな暮らし」を営むこと。豊かな自然と豊かな人間関係があれば成立する
- 震災後福島を訪れ、大変な状況も目にした
- 田舎を暮らすことを選ぶ人が増えている時代でもあり、頑張っていきたい
あばぁこんね:
- あばぁこんねは「じゃ、きてみたら?」という意味。誰でもメンバーになれる、ゆるやかなつながり。飲み会ベースの交流の場を、各地で年100回ほど開催している。
- 長く続けていくことが大事。ゆるやかで楽しい運営を心がけている
- 水俣の地域資源を活用した商品や特産物を各地のマルシェで販売(東京都青山、丸の内、福岡など)
- かつで水俣で塩が多くとられていたことを受け「蘇しお」という商品を開発。食べてもらい、海を感じ、森に想いを馳せて欲しい
- 「寒漬大根」を新たに開発した。次世代に残したい水俣の味と考える
- 水俣のイメージを色で尋ねると、「無い」「黒」「灰色」などの答えが多いが、水俣を実際にあるいてみると「鮮やかな(海の)青」などと答える人たちがでてくる。色鮮やかな水俣を伝えるため、写真家の協力を得て水俣の海の写真を活用したクリアファイルを作成し、販売している
- ここにきて、ものづくりをして、発信を行なうことの重要性をあらためて感じている(応援者も多くいる)
- 東日本大震災の被災地を訪れたこともある
オルタナ編集長 森氏:
- 水俣を始めて訪れ、多くを学んだ
- ドイツではチェルノブイリの後に農業への関心が高まった
- チェルノブイリ原発事故は、ドイツに限らず、ヨーロッパ全体で有機農業が広まった契機ともなっている
- 放射能にも有機農業にも無関心な層がまだまだ多い。これからが大事な時
- 多くの日本は、この数十年間、国がなんとかしてくれることを期待してきた。これからは自ら動き、築いていくことが不可欠。一次産業は付加価値を付けるとよい。フランスとイタリアが好事例
- よそにはない、何かを開発していくことも必要。長きに渡る試みを、辛抱強く我慢して続けていくことが大事
参考:オルタナ紙に紹介された記事
CSOネットワーク代表理事今田より開催の挨拶
菅野さんの発表
参加者からの質問や意見が多く交わされた
参加者からの質問や意見が多く交わされた
水あばあこんねが開発・発売した色鮮やかなクリアファイルの紹介
懇親会では、楽しいおしゃべりと地元の食材をいかした美味しい食事を堪能した
3月14日(木) 9:30 – 13:00
水俣市久木野ふるさとセンター愛林館視察
- 愛林館沿革について
- 棚田地域や森林地帯の見学
1988年に廃線となった駅の跡地につくられた水俣市久木野ふるさとセンター愛林館(以下、愛林館)では、公募で選ばれた沢畑氏を館長に、地域資源を生かした農村の活性化をめざし、数々のユニークな取り組みが展開されている。小さな集落だが、道をつくるための資金を自ら調達しようと「流しそうめん」を提供して売上を資金にあてるなど、地域の人たちの自助や支え合いの精神が豊かな土地柄である。今回の視察では、車で地域を廻りながら、愛林館が若い人材を集めて維持管理を行なっている棚田や、森林保全の現場を案内いただいた。「よく、こういった地域を簡単に『限界集落』と呼ぶ人がいるが、限界集落とは、人口の50%以上が65 歳以上の高齢者であることに加え、冠婚葬祭などの社会的共同生活の維持が困難になっている集落と定義されている。この集落では地域の行事が住民によって現在も執り行われており、限界集落にはあたらない」という沢畑氏の強い言葉が印象的であった。
愛林館
館長の沢畑さん
田助手と書いて「たすけて」と読ませる、ユニークなポスター
愛林館では地域の名産の他、イベントを通じて作成された料理のレシピなど多くのオリジナル商品が販売されている
水源で湧き水を飲む
一面に広がる棚田は日本棚田百選に選ばれた
棚田は火山岩を使って作られているため、一度崩れると修復が大変
棚田は火山岩を使って作られているため、一度崩れると修復が大変
愛林館が間伐を行なっている山。「水」という文字の形に桜が植えられているとのこと
森を守るためには植林だけでは駄目、間伐が大切だということを伝えたいと語る沢畑さん