シンポジウム「新潟水俣病、福島原発事故からの教訓~持続可能な地域づくりを共に考える~」(2013/11/17)ご報告

09.04


日時:2012年11月17日(土)13:30~16:45
場所:新潟県立生涯学習センター

主催:にいがた有機農業推進ネットワーク
   特定非営利活動法人 福島県有機農業ネットワーク
   一般財団法人 CSOネットワーク
助成:独立行政法人 環境再生保全機構地球環境基金

主催者挨拶 鶴巻義夫 にいがた有機農業推進ネットワーク 共同代表

本日は、シンポジウムにお越しいただき本当にありがとうございます。3.11の津波、原発事故については、歴史的変わり目という位置づけで、これからどうするか、考え直さなければいけないほどの歴史の変わり目、という共通の意識を持っています。

福島は太平洋に面していて新潟の隣県、福島も新潟も原発を抱えており、東電の原発が集中しています。原発とは何か、水俣もそうだが近代科学農業も原発と根は一緒である。それは戦争技術であり、それが原点である。このように近代科学は戦争のためという認識を持たなければいけない。これをまずははっきりさせなければいけないということを訴えたいと思っています。新潟の水俣病に関しては、植物連鎖によって魚に水銀が入り、無機水銀が食物連鎖によって有機水銀にかわるという原因解明がなされました。このように原発にも原点の原因解明が必要であります。

最後に、少しでも何とかできればという思いで活動しております。福島県の放射能の汚染の状況、福島とは隣同士であるから、手をつないで一緒に勉強もしていければと思っています。今日は本当にありがとうございます。

基調講演:野中昌法 新潟大学 環境安全推進室長 農学博士・教授
『福島原発事故、新潟水俣病から学ぶこと~自然・人間・地域と共生した持続可能な農業と地域社会の再生に向けて』

キーワード

話が広がることもあるのでまずいくつかキーワードを出したい。今回の原発事故は「想像力」がなかった、そして「責任転嫁」が多かった。また、原発問題は足尾銅山鉱毒事件に似ている。私たちは原発をある意味で認めてきた、今まで私たちは、公害事件の教訓をいかしてきたのか。「科学者」の責任を考えていく必要がある。自立をするための「有機農業」や「地域自給力」を考えていかなければいけない。福島の土と人間と地域が一体となり、「バリアフリー」や、全ての人が関わる協力関係の構築が必要である。昨日福島を訪問してきたが、放送局ですらほとんど(原発の問題を)取り上げなくなってきている。このようにすでに風化してきているのではないか。

福島で何が起きてきたのかを考えると、広島、長崎、1960年代の核実験の教訓が全く活かされていないと思う。それは、原発事故は公害であるという観点が抜けているからだ。さらにその中で被害者である農家と都市部の消費者との対立や乖離がある。新潟にあてはめるなら、瓦礫処理を含めて住民が対立するような構図、現状になってきている。

足尾銅山鉱毒事件

では、過去に起きた足尾銅山鉱毒事件はどうだったのか。1887年と2006年の写真を比べると今でも山に緑は戻ってきていない。福島も含めてあってはならないことだったのに残念ながら福島で起きてしまった。田中正造が1912年に日記に書いた言葉である「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」、これを心に留めておかなければいけない。そしてもう一回、真の文明とは何かを考えなければいけない。

新潟水俣病と環境問題

水俣病の背景には戦争の歴史があった。ハーバーボッチ法の特許権を日本政府が買い、日本窒素ガスに与えてその企業が水俣病事件を引き起こした。そして今でも偏見と差別があるのだ。また、患者が今も出てきている。水俣病についての地域の中の融和、再生が必要であるがなかなか進んでおらず、また水銀の規制がなかなかうまくいかないのが現状である。

新潟水俣病事件から現代の環境問題を考える時、こういう問題が起きた時に国は被害住民の味方にはなかなかならない。そして欺瞞により真実が曲げられ、疑わしきは罰せずの対応をとるのである。疑わしきは認めず、人の命の軽視につながっている。また、原発事故を記録に残さなければいけない。そのために詳細な調査実施し、世界に発信していかなければいけない。しかし、政府は詳細な調査はしていないため、自分たちで調査して発信していきたいと考えている。

菅野さん、福島とのかかわり

放射性物質に関して、昔から夏に冷たい風がくるのは飯舘村であり、冷害の通る同じ道を放射性物質が通った。そして同じ地域でも場所によって線量が異なるのである。私は、放射能はそこで封じ込めるかしかないと思っている。そこでどうやって安全に農作物を作るかを考えなければいけない。耕作して作物をつくることで封じ込めをやっている。また、有機の里東和宣言に描かれている自立の力が放射性物質に打ち勝つのではないだろうか。

私は福島で災害復興プロジェクトを開始した。その基盤となったのは、その地域ですでにあったビジョンであり、そのビジョンに乗っかる形で進めていった。それは多様な主体が連携して復興活動をおこなっているプロジェクトである。 驚くことに、86か所で地域住民が線量マップをつくっていた。このように詳細なマップを作成することは重要なことである。

有機農業は育てる農業であり、人間を育み、自然や作物を育てる芽を育み地域を活性化できる。農業に誇りを持つことが一番大切だと思っている。有機農業を通して安全性の高い作物が出来、また有機農業は多様なパターンがある。農と職と地域 地域自給力等を循環させながら地域を活性化させていくことが必要でありそのひとつの例として小川町の60%が有機農業なのである。

福島原発事故に関して感じたこと、それは実は政府がやっていることは以前の事故前と変わっていないということである。地元の意向は無視され、公害のときと同様の対応である。また、住民同士の共通認識の形成がおこなわれておらず、住民同士が対立する構図があることは非常に危険なことだと思っている。今後、有機農業、農業と原発は共存しないということを伝えたいが日本でそういう動きはないのは残念である。

名古屋大学の西川氏は、有機農業は市場思考、グローバリゼーションへの適応戦略ではない、と言っている。農家自身にとってもこれは大切であると述べている。そのような中でファーマーズマーケットが広がっており、有機農産物を広げようという動きがある。

今後大切なのは農業復興の構えである。復興の主体はあくまで農家であり、農家が自主的に取り組めるように、私たち研究者は農家をサポートしながら成果をあげられるようにする必要がある。その上でまず大切なことは検査をすること、これが基盤となる。検査をするというのは知ることであり、生きることにつながり、地域の自立に繋がる。最終的に地域の中のコミュニケーションが復活する。事故以前よりもっとよい社会を創っていくことが提案されなければいけない。住んでいる人の安心感や農業最優先の復興も大切であると思っている。また、生産者、消費者を含めて理解を深める機会も必要であり議論するのだけではなく、実践ノウハウの共有をしていかなければいけない。私が福島に行くのもそのためである。私は他の研究チームとも情報共有している。

農林水産省は細かいところまで放射線量を測ってこなかった。しかし森林を含めて細かい数字を把握していく必要がある。0.01ベクレルまで測らなければいけない。森林からの水はどうなのか、米、田んぼへの影響はどうなのかなどしっかり検査することが必要である。

原田正純教授の言葉の、第1は弱者の立場で考えること、第2はバリアフリー、第3は現場に学ぶこと、という言葉は非常に大事である。現場で学ぶしかなく、現場に行かないと分からない。現場で学びながらともに一緒にやっていくことが必要である。

報告:菅野正寿 特定非営利活動法人 福島県有機農業ネットワーク 理事長
『有機農業が拓く、福島再生への道を』

はじめに

本日、新潟と福島をつなぐこのような場で発言ができること、感謝を申し上げます。もともと新潟と二本松は深い関わりがあります。大正時代は生糸生産が東和地域で非常に盛んで生糸市場があり、越後問屋が買い付けに来ていました。先祖が新潟という方が多いくらい交流が盛んであったのです。今回私の方からは今の福島の状況を報告して、どういう形でこれから地域を、福島を再生させていくかについて感じていることを話したいと思います。

1、進まない除染、損賠賠償、地域が分断、ふくしまに心を寄せた復興へ

現在福島から県外に6万人が避難しています。そして内部被ばく、低線量被ばくに関して科学的根拠が示されていない状況です。チェルノブイリとは違い、地形が平らでないため放射線量も場所によって異なり複雑で、現場に行かないと実際の数値はわからない。さらに外部被爆の状況実態をきっちりと調べないとわからない。内部被爆に関しても、100ベクレルという一般食品への基準がある。それなら70ベクレルなら食べられるのか。検出限界は10ベクレルであり、100という基準はあるが、食べる判断は食べる人個々人の判断にゆだねられています。外部被爆をしたくない、あるいは内部被爆を避けて食べない人は多い。このように根拠を示されないから福島に帰れないという状況なのです。どう判断すればよいかわからないため、見えない不安は若いお母さんを含めて解消されていないのである。

除染に関しては1年8か月過ぎても除染は発注43%、除染完了6%にとどまっている。高圧除染はトタン屋根がはがれたり、瓦が壊れたりするため逆効果のため実施していないのが現状である。そのため雨どいをふきとったり、サッシをふいたり、庭木の土をはがしたりして除染している。二本松市では除染費用一軒当たり、80-100万円かかる。大きな家は1か月もかかり、なかなか除染が進んでいないのである。

次に誰が除染を実施しているのかというと、南相馬も福島市も大手ゼネコンに一括受注している。そこから孫請けで地元の業者がしているのである。そこで二本松市は復興組合を作って、そこで発注するようにした。先ほど言ったようになかなか除染は進んでおらず、すべて終わるのに8年かかるのではないかとも言われている。つまり、子どもたちはいつまでも帰れないのではないかと不安がある。

また、福島の70%が山林だが全く除染をしていないのが現状だ。いくら田畑を除染しても雑木林から放射線が飛んできて、田畑の線量がまた上がるという状況がある。今後この住宅周辺、農地周辺の除染(伐採して苗木を植えるまで)を早急にすすめていくように要望したい。

不十分な損害賠償、遅れる損害賠償、地域を分断する損害賠償

二本松市は計画的避難区域ではなく、精神的な損害賠償が一人8万円のみで、18歳未満の子どもは1人40万円である。計画的避難区域は一人当たり毎月10万円の補償がきている。それに加え営業、事業の減収分が払われる。双葉町は住宅に戻らないことに対する補償がなかなか決まっていない。そのほかに風評被害がある。農家の損害賠償は原発前の収入との差額で出荷伝票、証明する書類を添付して請求をしている。私は東電に二回直接申請した。農協が委任をうけてやってはいるが遅いのが現状である。やっと1年過ぎて補償が半分入った農家もいる。このように一年過ぎてやっと半分入ったということで、100%入らないという状況がある。また、しいたけ農家には廃業が拡がっている。このように損害賠償によって住民同士のひずみが出てきている。避難者と避難の受け入れ側との分断もあり、これをどのようにしていくのかも課題となっている。

2、復興プロセスに住民参加を(農家住民と大学研究者の共同調査)

今年もあんぽ柿は出荷できていない状況であり、果樹栽培農家にも作付け制限が広がってしまった。(果樹栽培面積の減少が226ha)全国4位の米の生産量の福島県の約20%にあたる1万ヘクタール以上が作付されなかった。これは警戒区域と計画的避難区域、さらに作付制限や自粛によって拡がってしまった。本来自らの農地に自ら耕作する権利があるにもかかわらず、作付制限、自粛ということで農家の心の制限と意欲までも制限してしまったところに問題がある。農水省も環境省も福島の農家の心に寄り添った対応をするべきである。福島県で実施した玄米の全量全袋検査で99・8%が25㏃/㎏以下であった。野菜についてもほとんどのものが検出限界値以下(10㏃/㎏)という2年目にして驚きと感動の結果となった。チェリノブィリとは違う、日本の温帯モンスーン気候の肥沃な土壌での検証が大切である。新潟大学の野中昌法先生はじめ日本有機農業学会の研究者と農家の共同の調査により、耕すことによって放射性セシウムが土中に固定化されるということが証明されたといえる。さらに腐植の多い肥沃な土壌ほど、つまり有機農業による土づくりが復興への光りであるということがみえてきた。

私は農家住民と大学研究者の共同による実態調査が大切であると思う。復興プロセスに住民参加が今の福島にとってとても大事であり、住民主体の復興こそがコミュニティを大切にしていくありかたと思う。今、福島では大規模整備、大型施設、植物工場など大手ゼネコンが除染とともに進められている。私は地域営農と地域コミュニティを大事にした有機的農業による復興を提言していきたい。

震災後多くのNPO、NGO、市民団体の皆さんに支援にきていただいた。この市民の皆さんの力と地域の農の力の協働のなかに新しい都市と農村の関係をつくっていきたい。農業と農村のこの第1次産業を守り、地場産業と再生可能エネルギーによって地域に働く場をつくることが大切である。ゴミも基地も水俣もそして原発も地方に押し付けてきた日本のありかたにその本質にこそ問題があると思うからである。

新潟の教訓を無駄にせず、これからも新潟と連帯して福島の復興と再生に力をあわせていきたいです。

パネルディスカッション

酢山省三 新潟水俣病阿賀野患者会 事務局長
『地域から考える新潟水俣病問題』

新潟水俣病について

新潟水俣病は、熊本の際にきちんと対応していれば発生していなかった。新潟水俣病は長期間に汚染された魚を食べることによって起きた。特徴的症状は、手足の痺れや耳鳴り、日常生活では階段で転んだり、人とぶつかったり、物を落としたり等の支障がある。こういう障害に対して根本的治療法がないのが現状である。他の病気は新薬が開発されているのに、水俣病はなく対症療法しかないのだ。新潟水俣病の裁判闘争を含む運動を50年続けてきて、被害者の一番の願いはこの病気を何とかしてくれという気持ちである。少なくとも病気に対して病状の和らぐ研究に努めてほしいと思っている。

発生場所は阿賀野川の上流にある現在の阿賀町にあった昭和電工鹿瀬工場であり、菅野さんの報告のように、阿賀野川の源流は福島県の猪苗代湖でもある。昭和電工鹿瀬工場から水銀が処理されないで阿賀野川に垂れ流され新潟水俣病は発生した。この50年は患者の闘いの歴史であり、熊本でもそうだった。それは被害者の人間の尊厳を取り戻す闘いである。

裁判の終結時、水俣病患者はもう現れないだろうと言われた。不十分だが解決したと思っていた。しかし、まず熊本で患者が手を上げ出したことで、新潟でも名乗りを挙げていない患者がいるのではないかという疑念がわいた。そこで調査を開始し、多くの人が水俣病と診断を受け、5年前に設立された原告団は174人になった。裁判は1年9ヶ月の短期間で和解となり、一方国の法律(水俣病特別措置法)に基づく解決は今年7月に締め切られた。しかしこれは不当じゃないかと考えている。抗議運動したが締め切られてしまった。患者が名乗り出られないのは、病気に対する地域や世間での差別・偏見があるからだ。

ミナマタの教訓をフクシマへ

水俣の闘いの経験を語るときに重要な点は、水俣は公害であり人災であるということである。それは原発も同じで、加害企業と国が推進したものである。今後、加害企業と国の責任を明確にしていかなければいけない。被害者への補償においても不当な線引きをしないことが重要である。水俣病でも不当な線引きがあった。

それは全ての被害者を救済するという前提に立った運動をしなければいけないということである。これが大事なのではないだろうか。医療従事者の立場として、水俣病の調査をしっかりしておけば、こんな事態にはならなかったのではないだろうかと考えている。原発被害については今の段階でしっかりした対策を、予算をかけてやっていくべきであり、これは水俣病問題の教訓である。

家族、地域での分断と再生への道

過疎化や地域分断の再生について、家族の中、地域の中で特徴が現れる。それは患者と患者ではないグループに分けられることだ。補償金の分断もそのひとつである。このような様々な分断が起こる中で、患者は音を立てずに生活せざるをえないのである。今後は手探りだが、住みやすい地域づくりを心がけたい。水俣病発生前の地域づくりをめざして、もう一度阿賀野に活気を取り戻すというスローガンのもとにやっていく。最後に水俣病で亡くなった人を慰霊する慰霊式を実施したい。新潟水俣病被害者の慰霊碑もない。慰霊することで二度と悲劇を起こさない決意を示したい。

金子洋二 特定非営利活動法人 新潟NPO協会 代表理事
『市民×行政 持続可能な地域作りのために』

はじめに

持続可能な地域づくりに向けて,市民、ボランティアにできることとは何なのだろうか。そのようなことを話していきたい。行政は動きが鈍く、そのために新たな悲劇を生んでしまうこともある。しかしそれは行政が必要ないということではない。機敏で的確な行動をとるために市民は行政とどう結びつけばよいのだろうか。

限界集落での経験

ある山奥の6世帯13人の限界集落で奇跡が起きた。それは十日町市池谷集落であり、中越地震で被害はあったが注目はされなかった地域である。そこに国際協力NGOの人たちが中心となり若者が草刈や修復のボランティアにやってきた。限界集落の住民が温かく、そこに魅力を感じ、リピーターが続出した。その結果、この限界集落に1000人もの人々が1年間に訪れるようになった。その後企業も研修やボランティアという形で参加してきたのだ。その後、5人の若者が移住してきた。盆踊りの復活などを実施し、まさに復興していったのである。

そこでの地域づくりの主体は住民である。そこに行政も関わり、企業の活躍、学者やプロフェッショナルも関わる。地域作りにおいて住民が一番大事、住民はそこに住むプロであるからだ。一時期住民は開発において無視されてきて、使いづらい村の誕生となってきたことがある。

NPOと行政

NPO(市民団体)の材料は「NPO=人+おもい+しくみ」である。NPOの財産はお金よりも人、理念、組織事業、ハート、思いを共有している人が原動力となっている。NPOと行政で大きく違うことは、行政は安定性 公平性がある一方で動きは鈍くなり、機敏性には欠けるところがある。一方、NPOは柔軟、先駆的であり、行政が持っていないことを持っている。そのため共通性のあるところから結びつくことが必要である。NPOが、必要であることを証明すると行政は動いてくれる。そしてNPOは、行政が動きやすくできるようにすることも可能だ。協働は1+1が2以上になるから一緒にやる意義がある、なにがなんでも一緒にやる必要はない。

協働の事例~新潟NPO協会×まちづくり学校×新潟市~

避難は子どもと奥さんの組み合わせが多い。そういう方を支援するためのプロジェクトを作った。各地の交流会など、新潟になじむためのイベントを実施した。新潟市が名簿をもっているため、新潟市と協働した。これは支援だけじゃなく、いかに今後新潟が受け入れられるかの訓練にもなりまちづくりにもなっていくのである。

谷津由香里 新潟県大学生ボランティア本部「ボラんち」

「ボラんち」とはボランティアセンターのようなサークルでボランティアをしたい人とボランティア先を仲介する仲介役です。震災後は子ども学習ボランティアを始めました。震災後、新潟西総合スポーツセンターが避難所になっていて、避難している子どもも多くいました。そこで子どもへ勉強面の支援ができればと学習ボランティアを始めました。子どもは避難先でわがままも言えず、そして遊ぶ場所もありません。そのため思い切り遊び、勉強でき、安心して新学期を迎えられるような支援をしようという目的がありました。

主に1持間、体育館を借り切って、小学校の先生も教育学部の生徒も参加して、50人子どもが参加し物品は寄付でまかない、企業も寄付をしてくれました。実施内容は勉強半分、遊び半分ということで、1時間の半分は遊びにしていました。低学年の児童は、一時間勉強は難しいからです。

当初の目的は授業についていけるよう支援しようという目的でしたが、その後わがままが言える時間を与える、ストレスを解消するという目的に変わっていきました。その後避難所閉鎖により、避難してきた人のアパートへの生活の拠点の変化や、そこから生じる近くに知り合いがいない不安、避難者同士の交流の減少から学習ボランティアを続けることでつながりを保てるように新潟大学に拠点を設け、学習ボランティアを続けました。

現在は、新潟大学の教育学部で実施しています。家と学校以外の場を子ども達に提供し、勉強面のサポート、息抜きができる場となっていて、子どもにとっても楽しみになっています。そして保護者にとっても情報交換ができる場となりました。

ディスカッション

野中:瓦礫の撤去に関してフロアから意見を聞きたい。
フロア:瓦礫を受け入れることに関して、瓦礫を処理すると放射能が濃縮されるなど、廃棄物の行政は杜撰なことになっている。放射能は燃やすと濃縮される。普通ごみに含まれているダイオキシンは、高温度で償却することによって処理可能灰溶解している。しかし放射能は灰溶解をすることによって100ベクレルを超えるという問題があり、今は灰溶解をしていないのだ。そのため、鉛と水銀が基準を超える値で出てきている。どちらも困るが、どうすればよいのか考えていくべきである。また、埋め立ての安全性の観点から埋立地から1Lあたり10ベクレルの検出放流水が下流の田畑に流れ込んでおり、二次汚染になっている。一時的に汚染されたものによってさらに汚染が起きているおり、被災地で安全な処理を考えるべきなのではないだろうか。そして福島からの避難者が焼却場の近くに住んでいることがある。放射能から逃げてきたのに追いかけられている気分であるという意見もあり市民の責任としてやっていくべきである。

野中:田舎では若者がいるだけで喜んでいる。谷津さんはボランティアを通してどんなことを感じたか。
谷津:ボランティアに参加している子どもは、お父さんが福島に残っている家庭が多いことが印象に残っています。大学生という立場で、子どもと関わることで、子どもがじゃれついてくるところを見ると私たちだからできることはあるのではないかと考えている。

野中:偏見が生まれないよう、今後は子どもへの教育が大切である。学生が祖母から初めて水俣病についての話を聞いたという話を聞いて、まだまだ偏見や差別は残っていると感じた。金子さんは偏見のない教育に関してどのように考えるか。
金子さん:持続可能な教育のために市民活動の原動力はハートであると考える。そのハートをもった人をどれだけ育てられるか。そこでどうやって焚きつけるのか。若夫婦が2歳のこどもと限界村へ移住してきたという話がある。それはハートに火がついたのかもしれない。自分の子どもたちをここで育てることの意味を強く感じたという感想を聞いた。このようなことがヒントになるのではないだろうか。

野中:その地域に住んでいる人はその地域に住むプロであるという話が出てきているが、偏見などに関連して酢山さんはどう考えるか。
酢山:偏見というのは、色んなファクターが絡まって作られる。それに対しまずは事実を理解してもらうことが必要である。水俣病は、遺伝するとかうつると考える人もいる。そのため、私たちの活動を通して理解を深めていきたい。また多くの教育機関で学習の機会を設けており、若者の理解を深めていきたい。最後に福島潟の資料館の役割は非常に大きい。今の世の中はどうあるべきかを考えていく機会になるからだ。

菅野:私は、農業の大規模化をすることができない中山間地域で農業をやってきた。四季折々の野菜を届けるしかないと考え有機農業を開始した。さらに、今後の消費者の台所を考えると、食べ物は地域に根ざしたものが必要である。今回水俣について勉強して、水俣病の地域の魚を食べて汚染されたという話は福島も同じであると思った。原発事故の問題は風化させてはいけない戦いであり、農林漁業を守るための戦いであり、選択の転換点だと理解していかなければいけない。

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